これは実習に役に立ちそうです。
予習復習いたしましょう。
668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちは唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた。
690年に唐で則天武后が即位すると、内政が混乱を始める。この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗遺民らは、粟末靺鞨人指導者乞乞仲象の指揮の下に営州を脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。
二代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、毛皮などが交易された。この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している(渤海使・遣渤海使)。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。
このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜、大言義、大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して20数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。
国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の四世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。
その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。
10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。この結果渤海を含む周辺諸国に対する支配体制も弱体化していった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋?、それに続く大?譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は926年に滅亡した。契丹は故地を統治すべく東丹国を設置して支配したが、貴族をはじめとする領民が大挙して高麗に亡命して930年に自然消滅した。しかし、渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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