1960年代後半にフォークグループザ・フォーク・クルセダーズ、1970年代初頭から中盤にかけてロックバンドサディスティック・ミカ・バンドを率いる。
フォークル解散後の1969年にソロ活動を始め、この時期の主要作品に「家をつくるなら」(1971年)がある。
ミカバンド解散後、1977年、作詞家の安井かずみと再婚し、公私ともにパートナーとなる。彼女が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」で、三部作『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』(1979年-1981年)などのソロ作品の他、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。
また、1980年代から映画音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽なども幅広く手掛けていた。
略歴
京都市伏見区生まれ。生後すぐに神奈川県鎌倉市に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで育つ。その後1年間京都で、その後は高校卒業まで東京都で育つ。
ボブ・ディランのDon't Think Twice, It's All Right を聞いた影響でギターを始める。
東京都立竹台高等学校卒業後、祖父の後を継ぐつもりで京都市伏見区の実家に戻り、歩いて10分のところに位置していた龍谷大学に入学。アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作した自費製作アルバム(インディーズではない。)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、毎朝説得に来ていた北山修の説得により1年限りとの約束でプロの世界に入る。
シングル2作目に予定していた『イムジン河』が、南北朝鮮分断問題による政治的配慮から発売中止にされた。これに憤慨し、イムジン河のコード進行を反対にして作った曲が『悲しくてやりきれない』であるとする説もある。
『水虫の唄』 (作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作) ザ・フォーク・クルセダーズが1968年7月1日にアルバム『紀元弐阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。 当時の甘ったるいラブソングへのアンチテーゼとして水虫と言う材料を混ぜ、さらにクラシックの旋律(前奏の部分ではベートーヴェンの交響曲第6番『田園』の第1楽章冒頭部(第1主題)、曲のサビのところではメンデルスゾーンのピアノ曲『春の歌』)取り入れパロディ色を強めた高度な反骨メッセージをこめたユーモア・プロテストソングである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
1971年には『あの素晴しい愛をもう一度』で大ヒットを生み出した加藤和彦さん。
先日お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。
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